何事もバランスが大事だと言う。
食事も、運動も、そしてまた芸術においても、バランスが大事だと。
なるほど、その通りなのだろう。
だが、樹木の生い茂るのを見るとき、果たして樹木はバランスを考えて
枝葉を伸ばしているのだろうか、と思う。
それは自然界のバランス、考えずともバランスがとれるから、「自然」というのだろう。
ただ、枝葉の一つ一つは、全体のことを考えて伸びているわけではない。
一つ一つが命いっぱいに開いていく結果として、樹木全体の姿となるのだ。
書の作品をつくる際にも、バランスが大事だとされる。
一文字ずつのバランス・・・文字は建築のようなもので、バランスがくずれると、
建物がくずれるのと同じように、不安定となってくずれてしまう。
全体のバランス・・・紙面にどう納めるか。空間が生きるよう納めなくてはならない。
これを書道では象法(しょうほう)と言う。
書家はこのバランス感覚を身に着けていくことで、完璧で隙のない作品を作り上げる。
なのに、書家が書く書は、総じてつまらない。生命力が感じられない。
なぜなのか?
一つには、文字のバランスをとること、紙面に上手く納めることに気をとられ、
全体としての生命力が失われるから。
また一つには、書家の書く筆線が、自然から離れ、技巧に過ぎたものだから。
前衛書家の故・井上有一などは、その書家臭さをぶち壊すことで、
新たな書の世界を拓こうと試みた書人の一人である。
彼は言う、「お書家先生の顔に、墨をぶちまけてやれ!」と。
棟方志功など、どうだ。強度の近眼だったこともあり、版画を彫る様は、
顔を板に擦り付けんばかりに近づけて彫っている。
ほとんど全体など見ていない。いま彫っている、その一点にすべてを
刻み込んでいくかのような鬼気迫る彫りっぷりである。
書も、おそらく同じように書いていたに違いない。
井上有一や棟方志功の書を見るとき、枝葉の一つ一つが命をいっぱいに開き、
全体として樹木になったとのと似たものを感じる。
要は、全体を上手く卒なくまとめようとするのではなく、いまこの瞬間に集中していたら、
あとで見たら全体がそうなっていた、ということだ。
バランスなど気にする必要はない、バランスを考えるのはよくない、と言っているのではない。
「いま、ここ」に集中して生まれ出るモノには、計算を越えた自然なバランスが働き、
結果、全体としてバランスがとれる、ということだ。
そしてそれは、私たちの日々の生活や人生そのもにも言えるように思う。
バランスのいい健全な生活、バランスのいい計画的な人生を心がけるのもよいが、
いまこの瞬間に集中し楽しむことが、生命力を強くし、大樹のような人生を
送ることに繋がるのではないだろうか。
書芸家平野壮弦/ SOGEN
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