
先のブログで、人生とは魂の修業の旅であることに気づいた、と述べた。
その意味するところを、少し長くなるが以下に書かせていただく。
書芸術の核心にも触れるものなので、ぜひお読みいただきたい。
この宇宙はもともと一つだったものが、約50億年前にビッグバン(大爆発)
によって生まれたと言われる。そこから星々が生まれ、銀河系が生まれ、
太陽系が生まれ、そして地球が生まれた。またそこから、人間も含めた
さまざまな動植物が生まれた。
人間が生まれたことで、美醜や善悪といった価値基準が生まれた。
宇宙からすれば、美も醜も、善も悪も無いのであって、それは人間の
捉え方の問題なのである。言い換えれば、それは人間の精神(魂)の
捉え方の問題である、ということだ。
人を殺してはいけない。当たり前だ。だがそれもまた人間の判断なのであり、
宇宙からすれば、人間同士が殺し合ったところで、ノープロブレムなのだ。
ではなぜ、人を殺してはいけないのか?
数年前にニュース23で、高校生を集めた座談会が企画され、放映された。
その番組の中で、ある男子高校生が、「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」
という質問をして、参加者を唖然とさせた。「そんなの、当たり前だろう!」と
憤りを覚えた視聴者も少なくなかったはずだ。それに対して筑紫哲也氏が、
「そういった質問にきちんとした答えを大人が返すことが出来るかどうかが
問われていると思う。」と語った。
さて、あなたは、その高校生が発した質問に答えることが出来るだろうか?
殺してしまったら、その人の身内や関係者が哀しむから?
その人の前途ある将来を奪うことになるから?
それだけでは答えになっていないように思う。
人を殺してはいけないという、もっと深い理由があるはずだ。
少々、宗教じみた話になるが、人を殺してはいけない理由を突き詰めていくと、
魂の存在を無視して語ることはできないように思う。
自分はこう考える。
この宇宙には、目に見える現実世界とは次元を異にする魂の世界がある。
この世に生きる人々は、その魂の世界から肉体を与えられ、この世に
送りだされた者たちである。
何のために? それは、持って生まれたカルマ、宿業を出来るかぎり
削ぎ落とすべく、今生で修業することを通して、より高い魂のステージへと
向かうためである。
だから、人を殺すようなことをすれば、殺した相手の修業の機会を奪うと
同時に、自身の魂も低いステージへと落ちていってしまうことになる。
その低いステージのことを、古より「地獄」と言い表わしてきたのでは
ないだろうか。
もともと一つであり、統合されていた宇宙が、ビッグバンによって分裂した。
その宇宙は今なお拡張しつづけているが、ある時点までいくと、今度は収縮に
向かい、ついにはまた一つに戻るというのが今の物理学界の定説だという。
その説が正しいとすれば、分裂した魂もまた一つに統合されることになる、
ということになるだろう。
魂の世界が統合されたなら、そこにはもはや善も悪も無く、ステージの違い
も無い、ということになるのではないだろうか。
拙著『汚し屋 壮弦・俺の書でイケ!』にも書かせてもらったことだが、
もともと一つだった魂は、また再び一つになることを求めているのでは
ないかと思う。それを仏教では「悲願」などと言い表しているのかもしれない。
ちょっと精神世界のディープな話になったが、いま少しお付き合いいただきたい。
人間の魂はプラスとマイナスの両極を持って生まれてくる。容易に克服する
ことのできない強度のマイナス部分は、宿業やカルマと言われるよううな
ものだろう。人間に怖れや悩み、不安が尽きないのは、魂がその両極によって
引き裂かれているからで、それを超越して魂を統合し、善悪や美醜といった
人間の一般的な価値判断を超えた精神世界にゆくことが出来た人が、釈迦や
イエス・キリストなどの聖人、ということになるのではないだろうか。
現代の物理学では、分裂したこの宇宙が、ある時点から収縮に向かい、
また一つに戻ると考えられていると先に述べた。だとすれば、分裂して
生まれた魂の世界も、一つに回帰しようとするのが宇宙 自然の法則、
ということになるのではないか。
魂が一つに統合されるということは、何の悩みも不安も無い、満ち足りた
存在になる、ということだ。そう考えると、涅槃に入った釈迦などは、
自己の魂を統合できた人、いわゆる解脱できた人、ということになるだろう。
釈迦は自分一人、涅槃に入ったままでよかったはずだが、まだ魂が統合されて
おらず宿業や煩悩に苦しむ衆生を救うために、今生に戻られた。その教えが
仏教となり、また統合されつつある高いステージの 魂の化身であるイエス・
キリストの教えが、キリスト教となったのではないか。仏教やキリスト教
だけでなく、現在、世界にあるさまざまな宗教の内容に、差異はあるものの、
根本は皆同じ・・・要は分裂した人間の魂の救済である、ということなのでは
ないだろうか・・・
人間は我執をもって生まれる。自分への執着、ありとあらゆるものへの執着。
そして執着から、憎しみや嫉妬といったマイナスの感情が生まれる。
憎しみや嫉妬といったマイナスの感情は不幸を呼ぶ。
それに対して、愛や感謝といったプラスの感情は幸福を呼ぶ。
その幸福とは、物欲や性欲や食欲といった我欲を満たすことで得られる快感
ではなく、精神的な幸福、魂の幸福である。
だから、幸福になりたければ、まず他者の愛を感じ、感謝し、愛をもって
応えることだろう。
そう思ったとき、先のブログで書いた、幸福への方程式が生まれた・・・
「愛」+「感謝」=「幸福」
だが人間が我欲を超えて、そういった境地に至ることが、いかに至難のこと
であるかは、これまでの人間の歴史が証明している。
しかし考えてみれば、人間の歴史は宇宙の歴史を1年とすると、大晦日の
夜10時に生まれた赤ん坊のようなものだというから、未熟なのは当然といえば
当然のことだろう。
とはいえ、今生が人間にとって、魂の統合に向けての修業の場だとすれば、
カルマ・宿業に足を引っ張られながらも、なんとか一歩でも自己の魂を高い
ステージへと向かわせることが、人間が人間として生きる、最も深い意味である、
ということになるのではないだろうか。
「人生は修業」などというと、何かツラくて嫌な感じもするが、そうではなく、
すべてが自分の魂のステージを高め、自分自身が幸福になるために用意された
試練であると考えたなら、人生を一つのゲームのように楽しく味わうことも
できるのではないだろうか。
最後になったが・・・
「書芸術」を求めることも、まさにその楽しい修業の一つなのではないかと思う。
書で宇宙に遊び、すべてが統合された世界を自身の力で求め、表現していくこと・・・
それが書芸術の最も求めるところであり、醍醐味でもあるだろう。
「書芸術」は、字の上手下手といった、人間の常識的な価値判断を超えた次元に
位置するものである。
国境も、人種の違いも、宗教の別も無い、人間の魂に関わる世界を探究する
現代のアート、それが「書芸術」なのだ。
書芸家 平野壮弦/ SOGEN
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