アートと言葉



今朝、みんなで集まってアート談義をしている夢を見た。

(現実でサボってる分、夢の中ではガンバっているW)


そこで思ったのは、

言葉では表し得ないものを表すのがアートではあるが、アートについて言葉で

語り合うことももまた、直感により感知するおぼろな世界にフォースし、

よりクリアーに捉え感じ合う”遊び” なのではないか、ということ。


とすると、アーティスト・ステートメントというのは、「オレ、世界をこんな風に

見て、感じて、こんなんつくってんだけど、どうよ?」という、アート談義や論評の

ヒントとなるような、作家からの投げかけなのだろうと。



ただ、実物を見てピンとこなかったけど、説明を聞いたら、なるほど、だったら
スバラシイというのであれば、そんなものはアートではないとまでは言わずとも、
少なくともそれは、その鑑賞者にとっては単独では成り立たず、
言葉(説明)の補助があって成立する表現ということになるだろう。


現代のコンセプチャル・アートが主流のアート界においては、概念やそれを伝える
ための言葉を重視するのは当たり前なのかもしれないが、自分にとっては作品が
すべてであり、作品そのもに感じるものが無ければ、いくら言葉で説明されても、
感じないものは感じない。


ということで、言葉はアートへの理解を深めていくための助けとなる一方で、
これからも言葉を超えたところで、アートを全身全霊で感じてイキたい。





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言葉の功罪

 

 

自分は言葉を信じないと言いながら、言葉の重みや力を

いつも強く意識し、感じている。言霊の力はデカい。

 

だから空虚な作品を書きたくないのと同じく、

空虚な言葉も吐きたくない。

もっとも、何が空虚で何が実のある言葉なのかさえ、

人それぞれの主観によるわけだが。

 

言葉により、人間は自分の思考を整理し、

未来を創造していくことができる。

また他者と想いや考えを分かち合うこともできる。
一方で、人を騙し傷付けることもできるわけで、

双刃の剣ともいえるだろう。

 
言葉には、物事をわかりやすく分類してくれる一方で、

人の感情や思考を制約してしまうところがあるように思う。
たとえば「ストレス」という言葉。
昔はストレスなど無かったのに、「ストレス」という

言葉が広まったことで、世の中はストレスだらけになった。
「セクハラ」もそう。昔はセクハラなど無かったのに、

「セクハラ」という言葉が広まったことで、世の中は

セクハラだらけになった。
「髪切った?」と聞いただけでセクハラ。

「〇〇ちゃん」とちゃん付けで読んだだけでも

セクハラになリかねない御時世だ。

 
十人十色の人間模様も、「それ、ストレスだよね。」

「それってセクハラだよね。」の一言で伝わるんだから、

便利になったものだ。
が、その言葉がなかった時代には、互いに心の

ヒダのようなものを感じ合い、駆け引きしながら

人間同士、付き合っていたわけで、便利さと引き換えに、

豊かな心情や語彙が、社会から次第に失われていって

いるように思われてならない。

 
大江健三郎さんの『 あいまいな日本の私』、ではないが、

曖昧な中にこそ、ほんとうの豊かさがあるのではないか。
現代アートもデュシャン以来、いまだコンセプチャル

アートが主流ではあるけれど、言葉では説明できない世界を

表すのが芸術であり、書芸もまた然りであると思っている。

 

 

 

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