古典臨書に想う

 

 

10代から20代にかけて、古典臨書に明け暮れた。
一晩で100枚以上書いたこともざらである。
このように古典の名品を習いつつ、自分の書の世界を長い年月をかけて熟成させ、

築き上げていくのが書道の世界である。
この若い頃に没頭した古典臨書の鍛錬が、いまの自分のアートやデザイン書表現の
礎となっているのは確かだろう。

 

像造記折帖 (640x390)

 

一方、書道という垣根を超えて、より自由なアートに向かおうとするとき、この習い覚えた技や
感覚がジャマになることも少なくない。実際、書道を長年やった人の中に、「書はこうあるべき」
といった固定観念に囚われて、そこから抜け出せずにいる人の、何と多いことだろうか。
いや、そこに没頭するなら没頭するで、ヘタに個性や独創性など求めずに、生涯をかけて古典を
極めれば良いのだが、そのあたりが中途半端なものだから、本当に良い書というものが、
どうも今の時代、生まれにくくなっているように思われてならない。

 
 
中俣天游先生・永寿.1111学生時代、自分は英語専攻でありながら、書が好きで、

願い出て書道の講座を受講した。
講師は中国の王羲之の書と日本の仮名の古筆を

極められた書聖、故・中俣天游先生。
 
「北魏の快作にあっては、すでに一家を成している

ほどの熟達ぶりだ。」とまで拙書を評していただき、

その後も審査員を務められた公募展で、自分の醜悪な

作品に特別賞を与えてくださるなど目をかけていただいた
恩師のお一人である。
中俣天游先生は正統な書家で、ご自身は実に品格の高い
流麗な書を書かれる方であるにもかかわらず、自分の

キワモノのような書を推してくださったところに、

書の本質を極めた師の懐の深さを感じずにはいられない。

 

(左写真は中俣天游先生からの直筆年賀状)

 
 
 
 
 
若い時に、こうした超一流の憧れの師と巡り会えたことは幸いであり、
また修行時代に書道の世界で受けた恩恵には計り知れないものがある。
20代に10年間にわたり修行をさせていただいた恩師・坂井八空先生もそのお一人。
師は書の天才。どんな詩文も、活字を見ながら楷・行・草・篆・隷とあらゆる書体で、
草稿も無しに紙面に収めるその技と感覚には息を呑むほどの畏るべきものがあり、
墨色の出し方も超一流であった。
その書きぶりと呼吸とを常に間近で感じさせていただいたことが、今に繋がっている。

 

温泉銘・八空先生折帖.1111

(坂井八空先生より賜った、太宗『温泉銘』の臨書折帖)

 

 
子どもの書「字」.1111一方、子どもや書の専門家ではない人たちが、実に素晴らしい

書を書くのを目の当たりにするとき、古典臨書の修行を長年
積まなければ良書は書けないというのも、また違うのではないかと。
 
拙著『汚し屋壮弦 俺の書でイケ!』でも書いたが、子どもを

対象としたワークショップを開いたとき、小学4年生の女の子が

大筆を持って、大家も適わぬほどの書をいきなり書いたのには
驚いた。(左写真)

 

また白隠、良寛といった僧侶や、彫刻家で詩人の高村光太郎、

富岡鉄斎、棟方志功、中川一政といった画人が、個性的な

素晴らしい書を遺しているのを目の当たりにするとき、良書は

古典を通した技や感覚の鍛錬以上に、人であり生命力なのだと

いうことを痛感させられる。写真家のアラーキーの書などもそうだ。

 

 

 

明清時代の大家・傅山(ふざん)は「巧なるよりも拙なれ、媚なるよりも醜なれ」と言った。
書を極めた大家が、書はテクニックやセンスよりも、ます心であり命であると言っている。
古典で鍛錬するのは良いが、そこを忘れてしまっては、いくら技を身に付けたところで、
良書は生まれるべくもない。

 

SOGEN書芸塾では時に古典からも学ぶ。それは単に技やカタチを学ぶのではなく、書の本質、

エキスを学びとり、自身の創造に生かしていくためである。
何かを生み出すうえで、技や感覚も必要だが、芸術の王道は何よりも人であり、命なのだ。


 

 

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