日頃お世話になっている大手広告代理店のSさんが、十日町雪まつりの雪上カーニバルの
ブログを見てメールをくださった。
Sさんは大阪花博をはじめ大きなイベントを数多く手がけてこられた名プロデューサーで、
大学などでも講師として招かれ、コミュニケーションに関する講義などもされている方だ。
そのSさんからいただいたメールの内容が大変示唆に富み、また書芸術の核心にも触れるもの
だったので、Sさんの御承諾のもと、以下に原文のまま転載させていただく。
ブログで雪のファッションショーを見ました,
せっかくだから,雪ありきで舞台設定をしたらいいと思います.
雪が降るの舞台の上を,蛇の目をさしたモデルが行き来,
雪は巨大扇風機で方向調整をしたり,巻き上げたり,
数台使って渦巻き状にしたりできないか,
照明演出と絡ませると面白い背景ができそうです.
雪舞台のファッションショー,こぼれ話,
アイヌ模様と,アイルランドのケルト模様,両方ともに,好きなデザイン,
この二つの図案には共通項を感じる,
その両者のデザインが描く,カーブの繰り返しや重なりは,
猛吹雪による雪の舞いのパワフルな螺旋が原型では無いかと,
アイヌもケルトも,緯度は違うが,経度は近い,共に生活基盤の半分は雪の中にあり,
その幻想的な雪の舞いが,彼らのモチーフでは無いかと思う.
(死ぬほど怖い吹雪ながら,ゆえに持つ,超自然の美しさあり)
扇風機を使った雪舞台の背景演出案の裏には,そんな風景のイメージありきです.
ここから脱線しますが,
アイヌも,ケルトも,共に文字を持たない文化,だから模様だけに込める情熱も強烈であり,
デザイン的に研ぎ澄まされた感じがする.
アステカやインカ,マヤも文字を持たない文化,これらも上記と同じ迫力がある.
あれこれ表現の方法論があると,なんか表現力が薄まる感じもする.
手段も,会話/手紙/電話/FAX/メールとなると気ぜわしいだけ,
昔のような,見えて聞こえる範囲の,叫び1発,ノロシ1本,ぐらいの方が,
コンセプチャルであり,かつ雄弁だ.
書は,基本的には文字なんだけれど,漢字は絵文字を原型に持ちながら,
いまではかなり抽象的,かなり構造的(つまり論理的)である.
これらを解きほぐし,もともとの絵が持っていたポリシー(つまり感覚的)に立ち戻ると,
じゃ,どんな表現になるのか?,
ときにアバンギャルドな書を見ていると,書は,そんな中間的な領域も描くことが
できるのかな,などと,思ったりしています.
実は中間では無く,絵と文字,両者の魂の炙り出しができるかも知れない.
ケルトも,アイヌも,アステカ,インカ,マヤも,そのまま文化が継続していれば,
高度なコミュニケーションの必要性から,やがて文字が生まれたかも知れない,
しかしその前に,アイヌは江戸~明治に吸収され,ケルトはイギリスに吸収され,
中南米はスペインに滅ぼされて,検証不可ながら,思うに,彼らはいまでも高度な
コミュケーションを必要とせず,文字は必要としない文化のままなのかも知れない,
いまどっぷりとコミュニケーションの仕事をやっていながら,最近の情報過多の
社会の中での反作用なのか,文字を持たない文化に憧れたりする.
以上がSさんから戴いたメールをそのまま転載させていただいたが、奥深い内容で、
色々と考えさせられるところがあった。
また折をみて、書芸術を語るにおいて、あらためて触れさせていただけたらと思う。
書芸家 平野壮弦/ SOGEN
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