現代アートはおもしろい! (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.23 投稿 093)

 

 

昨日、TOMIO KOYAMA GALLERY(墨田区・清澄)を見に行った。
奈良美智はじめ、世界的芸術家を輩出している現代アートのギャラリーである。
 
ここには他にも現代アートの作品を扱うギャラリーが5つほど入っており、
それぞれでユニークな展覧会が開かれていた。
うち、特に印象に残った二作家の作品を紹介させていただく。

 
 
宮嶋葉一個展「WORKS OF ART 」より、作品名『鶏肉
2007.11.23
鶏肉だよ・・・鶏肉!
これだから現代アートはおもしろい。
なんで鶏肉を描いたんだろう?
しかも、こんな風に・・・
この不可思議さが現代アートの魅力の一つかもしれない。
明確な具象絵画とはちがって、想像をかき立てられる部分が多いのだ。
作家本人に言わせると、「自分の作品は抽象ではなく、あくまでも具象」
なのだそうだが、具象にしても、対象を極限までシンボライズした作品である。

 
 
タル・アール
 

2007.11.23-2 2007.11.23-3 2007.11.23-4

 
オランダ人の作家だそうだ。
巨大キャンパスに描かれた作品が発する生命力には心底圧倒される思いがした。
しかも見飽きないのだ。
意識と無意識の狭間を遊泳しながらの制作は、書にも通じるものがあり、
またバスキア的なものも連想させるが、造形と色彩感覚は彼独自のものだろう。
 
 

とにかく現代アートは頭ではわけが分らない分、理屈抜きに魂に訴えかけてくる
ところがあるように思う。もちろん、すべてがそうだというわけではなく、
好みもあるし、ピンキリではあるが・・・

アートは自由であり、ジャンル分けなど便宜的なものにすぎないが、
今回、現代アートの先端に触れ、もしジャンルで分けるとするならば、
自分の作品は、やはり書道ではなく、現代アートの部類なのだと思った。
 
 
考・現代アート
 

そんな得体のしれないものに、まさか自分が関わりを持つことになるとは、
むかしは夢にも想わなかった。
子ども頃、芸術家ほどウサン臭い人種はいないとさえ思っていた。
わけの分らぬ絵を描いて、それを高価な値で売るなど、詐欺にも等しいと。
それが書という芸術を通して、いま、現代アートの世界に足を踏み入れて
いるのだから、人生とは不思議なものだ。
 
日本に「芸術」という言葉が入ってきたのは明治の文明開化以降のこと。
それまで「芸事」や「芸道」はあっても、芸術(アート)という言葉や概念が
日本には無かった。
書も江戸時代までは、教養や人生修養の一つのように見なされ、寺子屋などで
手習いといった形で熱心に学ばれる一方、人品骨柄を表すものとして、禅僧や
文人の書が人気を得てはいたが、作品に値段を付けて売り買いするような
習慣は無かった。修養の一つとして書いた書を、自ら値を付けて売ろうなどとは
思いもしなかったにちがいない。
 
そうした考え方は、いまなお日本の芸道の世界には根強く残っている。
作品は売るためではなく、自己修養のために作っているのだ
・・・それは実に立派な心意気であり、物づくりの精神的支柱であると思う。
だが一方で、それが日本における芸術、とりわけ書芸術の進化発展の
足枷となってきたこともまた否めない。
 
書には世界に通ずる現代芸術としての大いなる可能性があるにもかかわらず、
そのいいとこ取りを海外の芸術家たちにされるばかりで、日本の書壇の
大多数の書家たちは、書芸術を口にしながらも、いまだに「書道」
という枠組みの中でしか書を捉えていないところがあるように思う。
いや、日本の書壇の中だけで生きようとするなら、それで何の問題も無いのだ。
そういった人たちのことを、とやかく言う気はさらさら無い。
ただ、現代芸術としての書の可能性を求めようとするならば、
その壁は打ち破っていかなくてはならないということだ。
 
それは、「書道」の世界のように、先人が拓いてくれた道を、師匠の助力を
得ながら山登りのように一歩一歩進んでいくのとは違い、真っ暗やみの宇宙空間で
自分一人で宇宙遊泳しながら光を求めていくようなもの。
それでも自分は、たとえ宇宙の藻クズと果てようとも、宇宙遊泳することを選びたい。
人が引いてくれた安全な道を進より、たとえ命を落とす危険があったとしても、
自分の道を自分で切り拓きながら進んでいきたい、そう強く思うのだ。
 

 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 

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