作家とお客を育てるギャラリー (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.29 投稿 098)

 

 

友人の紹介で、お茶の水にあるギャラリーMのM社長さんを訪ねる。
ギャラリー、アートショップ、デパートや海外での企画展など、

多角的な経営をされておられ、その充実した内容に敬服。
いや、それ以上に、M社長さんのお人柄に触れ、また今に至るまでの

経緯を伺わせていただき、深い感銘を受けた。

 

若い頃は、どちらかというと富裕層を相手に画商的な仕事をして、

過去の有名作家の作品を右から左に動かすという形で相応の利を得て

いたのだが、あるとき、「自分自身は結局、何もしていないじゃないか。」

と思ったら虚しくなり、大きな方向転換を図ったのだという。
その方向転換とは、ひと言で言うなら、「無名の作家も含めて、

現代の作家を育てつつ、一般の人たちに芸術の魅力を伝えていく」ということ。
 
「道ゆく人たちに、いきなり高価な作品を売ろうとしても、むずかしい話。
一人の作家の個展を何度もやっていく中で、最初はハガキ1枚買ってくれた人が、
だんだんとその作品の良さが見えてきて、10年後に、一つ作品を買ってくれる・・・
そんな気長なスパンでやっているから、最初のうちはほんとに大変だった。」
というようなことを語ってくださった。
 
画廊仲間の中では、年に10回も個展をやれば大いばり出来るが、

「ウチは200回やってる。」と言うと、皆、信じてくれないそうだ。

年間の集客数が総計200人程度という画廊もざらだという。
ギャラリーMは現在、年間の集客数が20万人を越えており、100万人を

目標にやっているのだそうだ。
そこには、一部の富裕層だけを対象にするのではなく、大勢の人たちに

見てもらい、一般の人たちがお金を出して買ってくれるような作家を

育てていきたいという、M社長さんの熱い思いがある。

今の日本に、こうしたギャラリーは数少ないだろう。
作家も育て、お客も育て、地道であっても、双方に喜んでもらえる形を

つくっていく・・・
それを理想だけで終わらせず、実現している、M社長さんの心意気と

行動力には頭の下がる思いだった。

 

御礼のメールをさせていただいたところ、「まだまだ考えている事の20%も

実現できていません。はるか道遠し、です。」とのお返事をいただいた。
これだけのことを現実のものとしながら、まだ20パーセントだという・・・
すばらしいと思った。

 

目標100万人の集客、ぜひ実現していただくよう、陰ながらエールを

送らせていただきたい。

 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 
WEB:http://www.hiranosogen.com/
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未来は若者たちの手の中に (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.28 投稿 097)

 
 
著書 2006.1.15
 
 

今日、拙著『汚し屋 壮弦 俺の書でイケ!』の読者の青年と会った。
今年オーストラリアで個展と子どもたちに書を体験してもらうイベントをやってきたという
彼は、これから進むべき道を思いあぐねていた。そんな折、拙著を読んで勇気づけられた
ことから、ぜひ会いたいと思い、静岡からわざわざ訪ねてきたのだそうだ。

 

会ってビックリ、耳ピアスのイケメンやん。いや、このギャップがいいね。
いかにも書道家ってよりも、「え?! この人が書を?」っていう意外性があるほうが
クールじゃないか?笑
そういえば自分も昔、ピアスしたことあったけど、めんどくさくなってやめたっけ。

そのうちタトゥーだらけの書道家、なんてのも登場するかもね。
いま海外では漢字のタトゥーが流行ってるらしいけど、妙な漢字を入れている人が
多いらしい。なぜか「銀杏」とか「豆腐」とか「台所」とか・・・笑
 
彼から聞いた話だけど、オーストラリアであるオーストラリア人が
「これは中国で彫ってもらった漢字のタトゥーだ。
ドラゴンと彫ってもらったんだ。どうだ、スゲ~だろ?」
と見せてくれた刺青を見たら、「」と彫られていたそうだ。
さすがに気の毒で、本当のことは言えなかったそうだ・笑

 

いや、ピアスやタトゥーは個人の自由だから、まあどうでもいいんだけど、
若い世代の人たちが書に興味を持って何かやろうとするのはうれしいこと。
前向きな若者たちに、拙著が何かちょっとでもヒントや刺激になったなら本望に思う。

 

彼とは色々な話をして、こちらとしても、いい刺激になった。
書で生きていくのは簡単なことではないけれど、その覚悟さえあれば、

きっと乗り越えていくことができるだろう。
彼も含め、あらゆるジャンルで新しい世界にチャレンジしようとしている

若者たちの前途を祝し、陰ながらエールを送りたい。
というか、オマエもがんばれ!笑
 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 
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縁結びのSOGEN書芸塾 (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.27 投稿 096)

 
 
先日、SOGEN書芸塾で出会ったカップルの結婚パーティーに参列しました。

出会って数カ月でのゴールだそうですが、これで昨年来、2組目の縁組み。
ナコードするために書芸塾をやってるわけではありませんが、
教室が縁でカップルが誕生するのはうれしいかぎりです。

 

SOGEN書芸塾では、書いた作品をお互いに見せ合い、感想や批評を
述べ合う時間をもつようにしています。
上手とか下手とかいった問題ではなく、他の人の作品には、自分には無い
発想や表現方法があり、互いに作品を鑑賞することが、大変よい刺激と
交流になっています。
それは、単に表面的な出来栄えを目で見るということではなく、
互いのより深い部分を心で感じ合うことに繋がります。
 
また書芸塾では、毎月教室後に、参加自由の懇親会を開いています。
ただ一緒に飲むのではなく、書を書き、互いに心で触れ合ったのちに

共に飲む酒はまた格別で、交流もまた一層深まります。

カップルが誕生し、あっという間にゴールインするのも、

もしかしたらそのせいかもしれません。

 

縁結びのSOGEN書芸塾へ、どうぞ皆さん、おいでやす。
 

 
ARC

 

●SOGEN書芸塾ARC紹介ページ(教室紹介動画あり)
http://www.hiranosogen.jp/arc/index.html

 

●SOGEN書芸塾FACEBOOKサイト(教室の様子や塾生の作品等を掲載)
https://www.facebook.com/arctokyo

 

 




 
 

『海』~SOGEN書芸塾・塾生作品より~ (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.26 投稿 095)

 
 
11月のSOGEN塾・フリークラスでは、「」をテーマに
書で表現しました。
 
SOGEN塾では、書表現における基本的な発想法や技法も伝えますが、
ある型を習うのではなく、それぞれが持ち味を活かしながら、
独自の表現世界を創り出していくことに一番重きをおいています。
そこが、お手本を見てひたすら習うような一般の書道教室とは
大きく異なるところです。
 
専門的に見れば、線質、墨の濃淡、印の位置など、もっとこうしたら、
といったところもあるでしょうが、一番大切なのは、お手本通りに書く
ことではなく、想いを筆線にのせ、自分自身のいのちのリズムをもって
書き表すことです。
 
自由とは、実は一番大変なことなのです。
これがいいとされるものを習っているほうが、どんなに楽か・・・
しかし、字が上手くなることではなく、芸術としての書を求めるのであれば、
勇気を出して、自由の海原に、自らの力で漕ぎ出さなくてはなりません。
その航海は、ときに暗闇の中で孤独感に襲われたり、方向を見失いそうに
なることもあるでしょう。
ですが、芸術の喜び、真の歓喜は、その果てなき航海の中にこそあるのでは
ないかと思います。
 
書芸塾に集う人々は、ときに寄り添い、ときに遠くから見守りながら、
互いの成長の喜びを分かち合いつつ、人生という航海を共にする
仲間たちなのです。

 
 

2007.11.26 sea-1  2007.11.26 sea-2

 

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2007.11.26 sea-5

 

 

 
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https://www.facebook.com/arctokyo 
 




 
 

『和太鼓』 (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.25 投稿 094)

 
 
2007.11.25 wadaiko

 

 

管楽器と打楽器、あなたはどちらが好きですか?
自分はどちらかというと、打楽器や弦楽器のほうが好きです。
壮弦の名前にも弦の文字がありますし・笑
 
太鼓なんか、もう大好きで、以前はよくライブを聴きに行ったものです。

太鼓の音は、耳で聴くというよりも、魂の奥底まで響いてくる感じ、
打楽器や弦楽器の音とリズムには、心をかき立て、ワクワクさせて
くれる何かがあるように思います。
 
上記『和太鼓』のロゴ書は、ある会社のパンフレットの表紙用に
ご依頼いただき、書かせていただいたものです。
太鼓の音が聴こえてきくるような雰囲気で・・・と思いつつ、
ポンポコポンと腹づつみを打ちながら書きました。
楽器は何も弾けませんが、腹づつみだけは得意です!

 
 
【広告デザイン書道(書芸)】

http://www.hiranosogen.com/koukoku-design/index.html
 

 
 

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現代アートはおもしろい! (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.23 投稿 093)

 

 

昨日、TOMIO KOYAMA GALLERY(墨田区・清澄)を見に行った。
奈良美智はじめ、世界的芸術家を輩出している現代アートのギャラリーである。
 
ここには他にも現代アートの作品を扱うギャラリーが5つほど入っており、
それぞれでユニークな展覧会が開かれていた。
うち、特に印象に残った二作家の作品を紹介させていただく。

 
 
宮嶋葉一個展「WORKS OF ART 」より、作品名『鶏肉
2007.11.23
鶏肉だよ・・・鶏肉!
これだから現代アートはおもしろい。
なんで鶏肉を描いたんだろう?
しかも、こんな風に・・・
この不可思議さが現代アートの魅力の一つかもしれない。
明確な具象絵画とはちがって、想像をかき立てられる部分が多いのだ。
作家本人に言わせると、「自分の作品は抽象ではなく、あくまでも具象」
なのだそうだが、具象にしても、対象を極限までシンボライズした作品である。

 
 
タル・アール
 

2007.11.23-2 2007.11.23-3 2007.11.23-4

 
オランダ人の作家だそうだ。
巨大キャンパスに描かれた作品が発する生命力には心底圧倒される思いがした。
しかも見飽きないのだ。
意識と無意識の狭間を遊泳しながらの制作は、書にも通じるものがあり、
またバスキア的なものも連想させるが、造形と色彩感覚は彼独自のものだろう。
 
 

とにかく現代アートは頭ではわけが分らない分、理屈抜きに魂に訴えかけてくる
ところがあるように思う。もちろん、すべてがそうだというわけではなく、
好みもあるし、ピンキリではあるが・・・

アートは自由であり、ジャンル分けなど便宜的なものにすぎないが、
今回、現代アートの先端に触れ、もしジャンルで分けるとするならば、
自分の作品は、やはり書道ではなく、現代アートの部類なのだと思った。
 
 
考・現代アート
 

そんな得体のしれないものに、まさか自分が関わりを持つことになるとは、
むかしは夢にも想わなかった。
子ども頃、芸術家ほどウサン臭い人種はいないとさえ思っていた。
わけの分らぬ絵を描いて、それを高価な値で売るなど、詐欺にも等しいと。
それが書という芸術を通して、いま、現代アートの世界に足を踏み入れて
いるのだから、人生とは不思議なものだ。
 
日本に「芸術」という言葉が入ってきたのは明治の文明開化以降のこと。
それまで「芸事」や「芸道」はあっても、芸術(アート)という言葉や概念が
日本には無かった。
書も江戸時代までは、教養や人生修養の一つのように見なされ、寺子屋などで
手習いといった形で熱心に学ばれる一方、人品骨柄を表すものとして、禅僧や
文人の書が人気を得てはいたが、作品に値段を付けて売り買いするような
習慣は無かった。修養の一つとして書いた書を、自ら値を付けて売ろうなどとは
思いもしなかったにちがいない。
 
そうした考え方は、いまなお日本の芸道の世界には根強く残っている。
作品は売るためではなく、自己修養のために作っているのだ
・・・それは実に立派な心意気であり、物づくりの精神的支柱であると思う。
だが一方で、それが日本における芸術、とりわけ書芸術の進化発展の
足枷となってきたこともまた否めない。
 
書には世界に通ずる現代芸術としての大いなる可能性があるにもかかわらず、
そのいいとこ取りを海外の芸術家たちにされるばかりで、日本の書壇の
大多数の書家たちは、書芸術を口にしながらも、いまだに「書道」
という枠組みの中でしか書を捉えていないところがあるように思う。
いや、日本の書壇の中だけで生きようとするなら、それで何の問題も無いのだ。
そういった人たちのことを、とやかく言う気はさらさら無い。
ただ、現代芸術としての書の可能性を求めようとするならば、
その壁は打ち破っていかなくてはならないということだ。
 
それは、「書道」の世界のように、先人が拓いてくれた道を、師匠の助力を
得ながら山登りのように一歩一歩進んでいくのとは違い、真っ暗やみの宇宙空間で
自分一人で宇宙遊泳しながら光を求めていくようなもの。
それでも自分は、たとえ宇宙の藻クズと果てようとも、宇宙遊泳することを選びたい。
人が引いてくれた安全な道を進より、たとえ命を落とす危険があったとしても、
自分の道を自分で切り拓きながら進んでいきたい、そう強く思うのだ。
 

 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 

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「思念は魂に働く・・・」 (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.21 投稿 092)

 
 
2007.11.21

 

 

「思念は魂に働き、言葉は感情に働き、文章は脳に働く。」
 
 旅先で思い浮かんだ言葉です。
 
 
 
「思念は魂に働く」
 
「思念」とは、ただ思うのではなく、「思い念ずる」ということ。
「思念」は、人の魂に強く働きかけるところがある。
言葉で言ったり書いたりしても、人は忘れてしまうことが多い。
だが強く思い込み、魂に刻み付けたことは、容易に忘れない。
何かを変えたり、実現したいと思うなら、言ったり書いたりするよりもまず先に、
強い思念を持ち、心に刻みつけることではないだろうか。
強い思念を持つと、その思念が魂に働きかける。
すると行動が変わってくる。
何があっても、簡単にくじけたり諦めたりはしないようになる。
なぜなら自分の魂が、どんな時でも自分の味方して支えてくれるようになるからだ。
それはこの世で最強の自分の味方だ。
 
 
「言葉は感情に働く」
 
「思っているだけでは伝わらない。」とよく言われる。
もちろん以心伝心もあるだろうが、親兄弟、夫婦、親子はもちろんのこと、
同僚や友人知人、赤の他人も含め、まず言葉に出さなかったなら、たとえ
思いがあったとしても伝わらない。言葉にして、はじめてそれは伝わるのだ。
また、直に発せられた言葉というのは、聞き手の「感情」に強く働きかける
ところがある。
たとえば・・・政治家の選挙演説などを思い浮かべてみていただきたい。
故・田中角栄元総理の演説などは、内容に多少つじつまが合わなくとも、
聴衆に強くアピールする魅力と説得力とがあった。
一方、今どきの理路整然とした論理的な演説をする政治家の演説は、
よくよく聞けばごもっともな話だが、いま一つ心に響いてこないところもある。
つまり、言葉というのは、理屈よりも感情に働きかけるところが強い、ということだ。
夫婦ゲンカも含めて、口ゲンカというものは、いくら理屈でヤリ込めようとしても、
相手はなかなか納得しないものだ。
なぜなら、「言葉」が強く働きかけているのは相手の脳ではなく「感情」だからだ。
言葉を話すときは、理屈以上に、いかに相手の感情に働きかけるかが問題なのだ。
 
また言葉というのは、相手の感情だけでなく、その言葉を発する自分自身の感情にも
強く働きかけるところがある。
たとえば、黙っていれば我慢できたのに、言葉に出したことで感極まって泣き出して
しまった、などという経験をした人もいるだろう。
それは、自分の発した言葉に自分自身の感情が大きく揺さぶられるということだ。
「言葉」は聞き手のみならず、発し手の感情にも強く働きかけるのだ。
だから、前向きになりたければ前向きな言葉を発していたほうがいい、というのは
もっともな話で、ダメだ、もう終しまいだ。」などと嘆いてばかいいては、
自分の感情はますます落ち込んでいってしまう。
逆に「だいじょうぶ、何とかなるさ。」と言葉に出して言っていれば、感情も
穏やかになり、物事に前向きに向き合えるようになっていくことができる。
 
言葉一つで、それまでとても親しかった友人とケンカ分かれしたりすることもある。
それもまた、理屈の問題というよりも、言葉が互いの感情を、容易に修復できない
までに傷つけ、遠ざけてしまうからだろう。
このように「言葉」は人の感情を傷つけてしまうことがある一方で、人を励まし、
勇気づける、強い力を持っている。
また「言葉」には、他人だけでなく、自分自身を励まし、前向きな気持ちに
変えていく力がある。
言葉の持つ力を味方につけるか敵に回すかは、自分次第、ということだろう。
 
 
「文章は脳に働く」
 
文章を書いたり読んだりするときには、左脳がよく働くといわれる。
左脳は脳の中でも論理的な思考をつかさどる場所だ。
言葉で直に人に何か伝える場合は、多少の論理の飛躍や意味不明のところが
あってもかまわないが、文章にする場合には、それでは困る。
筋や理屈が通っていなければ、読み手に真意が伝わらないからだ。
だから、文章を書いたり読んだりすることは、論理的な思考を鍛えていく上で
大いに役に立つ。文章を書くことで、考えたり喋ったりするだけでは出てこない
アイデアが生まれたり、まとめ切れない想いや考えが整理されたりした経験を
持つ人も少なくないはず。またそれを、今後の自分の行動の指針として
役立てていくことだって出来る。

 
 
もし、あなたに、ある夢や願いがあって、それを本心から叶えたいと思うなら・・・
 
まず強く思うことだ。

ただ思うのではなく、思い念ずるのである。(=思念)
そのとき思念は魂に深く刻み込まれ、揺らぐことなく、あなたを支えてくれる
ことだろう。
 
次に、弱音を吐かず、できるかぎり前向きな「言葉」を発するよう心がけることだ。
その言葉は、あなた自身の感情に働きかけ、前向きな気持ちを呼び覚ましてくれる
ことだろう。
 
次に、夢や希望を「文章」にしてみること。
そして、その実現に向けてのプランをより詳細に文章化し、一つずつでいいから
実行に移していくこと。
 
 
自分の最大の味方は自分である。
逆に、自分の最大の敵もまた自分自身である。
自分自身を味方につけること、それだけで、自分の中に渦巻く悩みや苦しみをやわらげ、
人生を生き生きとしたものへと変えていくことが出来るのではないだろうか。
 
あなたは自分自身を味方につけますか、それとも敵に回しますか・・・?
 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 

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書は音楽だ♪ (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.20 投稿 091)

 

 

2007.11.20

SOGEN書 『遊』

 

 

書と音楽は、とてもよく似ていると思う。
音楽で表現されるさまざまな音、そしてその強弱や周波・・・
それは書芸術におけるさまざまな筆線やその強弱、動きにも通ずる。

 

「音楽には再現芸術という側面があるのです。」とピアニストの友人が言った。
なるほど・・・過去に作曲された作品は、演奏されてこそ、はじめて作品として
この世に生を受けることになる、ということだ。
だとすると、多くの書家や書道家が書くような文字作品というのも、同様に再現芸術
といえるようなものなのかもしれない。なぜなら文字というものは、自らが生み出した
ものではなく、古人によって生み出され、今日まで進化発展させられてきたものだからだ。
その文字を用いて作品を創るということは、作曲家が作詞した曲を自分流の解釈や情感を
加えて演奏するのにも似ている。これが他人の詩や言葉を書くということになれば、
なおのこと・・・他人が作曲した楽譜を自分流に演奏するようなものだろう。

 
自分自身の言葉を書で表した相田みつをなどは、音作詞も作曲も演奏もみな一人で
こなすシンガーソングライターのようなもの。ちょっとイメージは違うが、
書道界の中島みゆきや桑田圭祐のようなものだろう。
近年ようやく、クラッシックや演歌が主流だった書の世界に、ジャズやポップ
ミュージックが流れ込んできたわけだ。

 

では文字を書かない抽象表現というものは、どう解釈したらよいのだろうか。
それは、音楽でいえば、即興の現代音楽のようなものかもしれない。
楽譜も歌詞も無い、その瞬間に感じたインスピレーションで演奏をするというのは、

何も無い真っさらな紙面に、瞬間に作品を生み出す、書芸術における抽象表現作品の

制作過程に似ているように思う。
それは、瞬間瞬間に自分で作曲しながら演奏していくようなもので、まったく制約もなく

自由である反面、よい演奏をすることは至難の技・・・そう簡単にはいかない、
ということになるだろう。
たとえば、まず紙面の中央に一本のラインを書くとする。それを受けて、どこか空間に

マルを書く。またそれを受けて、角に墨だまりを作る・・・どこからどう書こうが、

最終的にはそこに宇宙的な調和の世界を創り出す・・・それは、いつどこから斬りかか
られても受け流すことに出来る、剣の達人の境地にも似ているように思う。

 

 

そんなことを思い、さて、では自分自身は、一体何を目指しているのだろうかと
我が身を振り返れば、やはり、剣でいえば、宮本武蔵のような境地なのだろう。
文字や言葉の作品を書こうが、抽象作品を書こうが、そういったことに関係なく、
要は、いつどこで、どんな作品を書こうが、瞬時に宇宙的な和合の世界を
創出できるようになりたい・・・そう願って、作品を創り続けている。

自分にとって「書を書く」とは、アート作品の創造であると同時に、
一つの人生修業のようなものなのだ。
 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN

 
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なぜ人を殺してはいけないのか? (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.19 投稿 090)

 
 
2007.11.19 書道
 
 

先のブログで、人生とは魂の修業の旅であることに気づいた、と述べた。
その意味するところを、少し長くなるが以下に書かせていただく。
書芸術の核心にも触れるものなので、ぜひお読みいただきたい。

 

この宇宙はもともと一つだったものが、約50億年前にビッグバン(大爆発)

によって生まれたと言われる。そこから星々が生まれ、銀河系が生まれ、

太陽系が生まれ、そして地球が生まれた。またそこから、人間も含めた

さまざまな動植物が生まれた。
人間が生まれたことで、美醜や善悪といった価値基準が生まれた。
宇宙からすれば、美も醜も、善も悪も無いのであって、それは人間の
捉え方の問題なのである。言い換えれば、それは人間の精神(魂)の
捉え方の問題である、ということだ。

 

 

人を殺してはいけない。当たり前だ。だがそれもまた人間の判断なのであり、

宇宙からすれば、人間同士が殺し合ったところで、ノープロブレムなのだ。
ではなぜ、人を殺してはいけないのか?

 
数年前にニュース23で、高校生を集めた座談会が企画され、放映された。
その番組の中で、ある男子高校生が、「なんで人を殺しちゃいけないんですか?」

という質問をして、参加者を唖然とさせた。「そんなの、当たり前だろう!」と

憤りを覚えた視聴者も少なくなかったはずだ。それに対して筑紫哲也氏が、

「そういった質問にきちんとした答えを大人が返すことが出来るかどうかが

問われていると思う。」と語った。
さて、あなたは、その高校生が発した質問に答えることが出来るだろうか?
殺してしまったら、その人の身内や関係者が哀しむから?
その人の前途ある将来を奪うことになるから?
それだけでは答えになっていないように思う。
人を殺してはいけないという、もっと深い理由があるはずだ。
少々、宗教じみた話になるが、人を殺してはいけない理由を突き詰めていくと、

魂の存在を無視して語ることはできないように思う。

 

 

自分はこう考える。
この宇宙には、目に見える現実世界とは次元を異にする魂の世界がある。
この世に生きる人々は、その魂の世界から肉体を与えられ、この世に

送りだされた者たちである。
何のために? それは、持って生まれたカルマ、宿業を出来るかぎり

削ぎ落とすべく、今生で修業することを通して、より高い魂のステージへと

向かうためである。
だから、人を殺すようなことをすれば、殺した相手の修業の機会を奪うと

同時に、自身の魂も低いステージへと落ちていってしまうことになる。

その低いステージのことを、古より「地獄」と言い表わしてきたのでは

ないだろうか。
もともと一つであり、統合されていた宇宙が、ビッグバンによって分裂した。
その宇宙は今なお拡張しつづけているが、ある時点までいくと、今度は収縮に

向かい、ついにはまた一つに戻るというのが今の物理学界の定説だという。
その説が正しいとすれば、分裂した魂もまた一つに統合されることになる、

ということになるだろう。
魂の世界が統合されたなら、そこにはもはや善も悪も無く、ステージの違い

も無い、ということになるのではないだろうか。
拙著『汚し屋 壮弦・俺の書でイケ!』にも書かせてもらったことだが、

もともと一つだった魂は、また再び一つになることを求めているのでは

ないかと思う。それを仏教では「悲願」などと言い表しているのかもしれない。

 

 

ちょっと精神世界のディープな話になったが、いま少しお付き合いいただきたい。
人間の魂はプラスとマイナスの両極を持って生まれてくる。容易に克服する

ことのできない強度のマイナス部分は、宿業やカルマと言われるよううな

ものだろう。人間に怖れや悩み、不安が尽きないのは、魂がその両極によって

引き裂かれているからで、それを超越して魂を統合し、善悪や美醜といった

人間の一般的な価値判断を超えた精神世界にゆくことが出来た人が、釈迦や

イエス・キリストなどの聖人、ということになるのではないだろうか。

 
現代の物理学では、分裂したこの宇宙が、ある時点から収縮に向かい、

また一つに戻ると考えられていると先に述べた。だとすれば、分裂して

生まれた魂の世界も、一つに回帰しようとするのが宇宙 自然の法則、

ということになるのではないか。
魂が一つに統合されるということは、何の悩みも不安も無い、満ち足りた

存在になる、ということだ。そう考えると、涅槃に入った釈迦などは、

自己の魂を統合できた人、いわゆる解脱できた人、ということになるだろう。

釈迦は自分一人、涅槃に入ったままでよかったはずだが、まだ魂が統合されて

おらず宿業や煩悩に苦しむ衆生を救うために、今生に戻られた。その教えが

仏教となり、また統合されつつある高いステージの 魂の化身であるイエス・

キリストの教えが、キリスト教となったのではないか。仏教やキリスト教

だけでなく、現在、世界にあるさまざまな宗教の内容に、差異はあるものの、

根本は皆同じ・・・要は分裂した人間の魂の救済である、ということなのでは

ないだろうか・・・

 

 

人間は我執をもって生まれる。自分への執着、ありとあらゆるものへの執着。
そして執着から、憎しみや嫉妬といったマイナスの感情が生まれる。
憎しみや嫉妬といったマイナスの感情は不幸を呼ぶ。
それに対して、愛や感謝といったプラスの感情は幸福を呼ぶ。
その幸福とは、物欲や性欲や食欲といった我欲を満たすことで得られる快感

ではなく、精神的な幸福、魂の幸福である。
だから、幸福になりたければ、まず他者の愛を感じ、感謝し、愛をもって

応えることだろう。
そう思ったとき、先のブログで書いた、幸福への方程式が生まれた・・・

 

「愛」+「感謝」=「幸福」

 

だが人間が我欲を超えて、そういった境地に至ることが、いかに至難のこと

であるかは、これまでの人間の歴史が証明している。
しかし考えてみれば、人間の歴史は宇宙の歴史を1年とすると、大晦日の

夜10時に生まれた赤ん坊のようなものだというから、未熟なのは当然といえば

当然のことだろう。

 

とはいえ、今生が人間にとって、魂の統合に向けての修業の場だとすれば、

カルマ・宿業に足を引っ張られながらも、なんとか一歩でも自己の魂を高い

ステージへと向かわせることが、人間が人間として生きる、最も深い意味である、

ということになるのではないだろうか。

 

「人生は修業」などというと、何かツラくて嫌な感じもするが、そうではなく、

すべてが自分の魂のステージを高め、自分自身が幸福になるために用意された

試練であると考えたなら、人生を一つのゲームのように楽しく味わうことも

できるのではないだろうか。

 

 

最後になったが・・・
「書芸術」を求めることも、まさにその楽しい修業の一つなのではないかと思う。
書で宇宙に遊び、すべてが統合された世界を自身の力で求め、表現していくこと・・・
それが書芸術の最も求めるところであり、醍醐味でもあるだろう。
「書芸術」は、字の上手下手といった、人間の常識的な価値判断を超えた次元に

位置するものである。
国境も、人種の違いも、宗教の別も無い、人間の魂に関わる世界を探究する

現代のアート、それが「書芸術」なのだ。
 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 

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幸福へのカギ (〜SOGEN blogバックナンバ〜 2007.11.17 投稿 089)

 
 
2007.11.17 koufuku
 
 

しばらく心の修業の旅に出ていた。
気づかされることの多い、意義深い旅だった。
 
もっとも大きな気づき・・・それは、人生とは魂の修業の旅であると悟ったこと。
 
宇宙は陰陽で成り立っている。
光があれば闇がある。美しいものもあれば醜いものがある。生があれば死がある。
どちらか一方では成り立たないのがこの宇宙だ。
それと同様に、人間の魂(精神)にも陰陽がある。
愛があれば憎しみがある。自由があれば執着がある。
人間の精神もまた、プラスとマイナスの両極を揺れ動いているのだ。
 
禅語に「善を思わず、悪を思わず」という言葉がある。
善も悪も思わない、囚われのない自由な精神の境地を表す言葉だ。
そしてまた、この言葉はこの大宇宙の真理をも見事についているように思う。
つまり、善悪や美醜といったものは人間の価値判断であって、
宇宙からみれば善も悪も、美も醜も無い、ということだ。
 
では両極があるのが宇宙であるならば、なぜ人間は、わざわざ
プラスの方向へいこうとし、少しでもよく生きたいと願うのだろうか?
思うにそれは、人間の魂が、本当の意味での幸福を希求する存在だから、なのではないか。
本当の幸福とは、お金や物では得られない、精神的な幸福、魂の幸福のことだ。
 
今回の旅で得たもの・・・それは「幸福へのカギ」を手に入れたこと。
そのカギは、誰でも心から望みさえすれば、容易に手に入れられるものだ。
それは一体何か・・・?
話せば長くなるので簡単に書かせていただく。
そのカギとは、「自分がこれまでの自分の生涯で与えられてきた愛の深さに気づき、
心の底に眠っている感謝の気持ちを呼び覚ます
」ということ。
与えられないものを嘆いて不平不満を抱いているかぎり、心は永遠に満たされることは無い。
逆に、自分がこれまでの生涯で与えられてきた愛の大きさに気づき、それに対して
深い感謝の気持ちを持つことが出来たなら、たったそれだけで、人の心は満たされ、
幸福を感じることが出来る、ということだ。

 
コップに水が半分入っている。それを見て「もう半分しか無い」と思う人は非観的に
物事を受け止めがちな人で、「まだ半分もある」と思う人は楽天的に物事を受け止める
傾向のある人だ、というようなことが言われるが、それと似たようなところがあるように思う。
他人が10のうち5つのことをしてくれたとする。こんなにしてくれて有難う!と思うか、
自分の望む半分のことしかしてくれないのかと不満に思うか・・・そこが幸と不幸の
分かれ目になる、ということだろう。
親について考えてみると、たとえ自分の親が自分のために10のうち9のことをしてくれた
としても、感謝するどころか、してくれなかった1のことを恨みに思い、親とスレ違いの
まま生涯を過ごしてしまう、といったこともあるのではないだろうか。
自分自身、まさにそんな人生を歩んできたように思う。
親にはいつも感謝しているつもりだったが、いくつかの出来事で生じた親とのスレ違いを
克服できぬまま、今まで生きてきたような気がする。
いま思えば、まさに山よりも高く海よりも深い愛情と恩恵を与えていただきながら、
それに当たり前のことように甘え、逆にわずかなマイナス面を勝手に拡大解釈して、
親のことを煙たがっていたところがあったように思う。なんと身勝手で恩知らずなことか!
他人に対しても同様で、たとえば10のうち9の恩恵を与えていただきながら、たった一つの
ことで、その人を見放してしまったり、関係が疎遠になってしまったりする、といったこと
があったように思う。
 
「他人がしてくれなかったことを恨み、他人が与えてくれない愛情を求めて不満に思っている
うちは、人生の主役は他人、ということになってしまう」という話を、この旅先で聴かせて
いただく機会があった。
他人をすべて自分の思うようにしたいと思っても永遠に無理なわけで、他人から幸福を与えて
もらうことを求めているうちは、決して幸福にはなれないだろう。逆に他人にしていただいた
こと、思いを寄せていただいたことに感謝する気持ちで生きていくことができるならば、
人生の主役は自分自身になり、幸福を手にすることができるだろう・・・といった内容だった。
 
さて、ここで・・・
 
☆今回、旅先で考えた、幸せ方程
「愛+感謝=幸福」
 

与えられないものにばかり目を向けて不満に思うのではなく、していただいたこと、与えて
いただいた愛に目を向け、自分の中に眠っている感謝の気持ちを呼び覚ます・・・たった
それだけで、人の心は安らぎ、幸福を感じることができると知った・・・
有り難い気づきを与えていただいたわけだ。
 
とはいえ、人間には我執があるわけで、特にオイラのような我の強い人間にとっては、
そう簡単にはいかないように思う。
幸福へのカギ~幸福になるための方程式は手に入れた・・・けれども、それを使いこなせるか
どうかは、これからの自分次第、ということだろう。
まずは、親や家族はもちろんのこと、人様からいただく愛や恩情に対して、心の底から感謝する
日々を過ごさせていただくことができるよう、これから努め心がけていきたいと思う。
 
 

 

 

書芸家 平野壮弦/ SOGEN
 

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