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どこでも書芸塾 

SOGEN書芸ワークショップ『どこでも書芸塾』



講演&東京出演/インタビュー取材依頼
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~書を通して、命、心、魂を表わし交感する~


『どこでも書芸塾』は、子どもから大人までを対象とした、SOGENがプロデュースする書芸アートワークショップです。
『どこでも書芸塾』は、字が上手く書けるようになるためのお習字教室ではありません。 思うがままに、文字や言葉、絵や絵文字を書く中で、自分の命、心、魂を表わし、未知の自分と出会い、他の人たちの命、心、魂を感じる場、それが『どこでも書芸塾』です。

幼児から保育園児、小学生、中高校生、大学生、専門学校生、社会人、主婦の方から、おじいちゃん、おばあちゃんまで大歓迎♪ 
外国人を対象とした書芸体験ワークショップもあります。

その名の通り、どんな場所でも、筆一本で『どこでも書芸塾』に早変わり!
公民館、保育所、小中学校、高校、大学、専門学校、福祉介護施設、病院、お寺、神社、お祭り、企業研修等、ご要望に応じてSOGENがどこでも出向かせていただきます。

SOGENは和の芸術文化に根ざした書芸の魅力を広く世界に伝え、国や文化、宗教の違いを超え、筆線を通した交感の世界を生み出していきたいと強く願っております。
『どこでも書芸塾』の活動にご興味をお持ちのグループ、学校、施設、企業様がございましたら、ぜひお気軽にお声がけください。

>>書芸にかけるSOGENの想い

なお講師料につきましては、主催、内容、参加人数等にも依りますが、極力ご予算に応じて行わせていただきたいと考えております。まずはお気軽にご相談くださいませ。


書道家/書家 子供向けワークショップのご案内



なお書道パフォーマンスや書芸ワークショップを合わせて行うことで、より印象が深まることから、セットでご依頼いただく機会が増えております。
どうぞ併せてご検討ください。

>>書道パフォーマンス
>>書芸ワークショップ


以下はセットで行った場合の事例となります。セットでのご依頼をご検討の際にご参照ください。
>> セット事例

以下はSOGENが東京で主宰する『SOGEN書芸塾ARC』のご案内になります。 継続的に書芸を学びたい方で通塾可能な方は、ぜひ本書芸塾にご参加ください。 遠方の方のための『書芸通信講座』もございます。

SOGEN書芸塾ARC 公式サイト:http://www.sogen-arc.com/




書芸家SOGEN / 学校教育への提言


20代のころ、私は新潟県の公立中学校で教師をしていました。担当教科は英語。書道をやっていたことから、1年生の習字も合わせて任されました。
習字の授業では、筆書をただ御手本通りに上手く書けるようになることを目指すのではなく、芸術としての書の魅力、楽しさを伝えようと奮闘。お尻で空中に書を書く尻文字書道をはじめ、さまざまな創作活動を授業に取り入れたことで、生徒たちは独自の素晴らしい書を書くように成長していきます。
そこで、生徒たちが自由に創作した書をぜひ学校の文化祭で展示したいと発案したところ、国語科の教師たちの反対により却下されました。理由は「皆が同じものを書かなければ、誰が上手くて誰が下手なのか分からなくなる。見に来た保護者たちも、自分の子どもの字が、ほかの子と比べて上手いのか下手なのか分からなくては困るだろう。」というものでした。
この言葉に、私は怒りを越えて悲しみを覚えます。教育熱心な立派な先生と目される教師たちが、そのような考えの下に日々教壇に立っている・・・ここに、現代の日本の学校教育がかかえる最大の問題、子どもたちの不幸の元があるように思えました。

教育は他人と比べて自分のレベルを推し量るためにあるのでしょうか?
否、教育は子どもたち一人ひとりの成長のためにあり、親や教師も共に学び成長していくためにあるはず。教育評論家の尾木ママこと、尾木直樹氏も言うように、「教育は共育」であり、その心は「共に育つ」ことにあるのではないかと思うのです。

習字に関して言えば、皆が同じ文字や言葉を書くことがよくないというのではありません。他人と比べて上手いか下手かという基準で評価を下そうとする、その教育観に誤りがあるのではないかということです。
受験に備え、教師は偏差値によって生徒たちを振り分けていきます。そこで問題となるのは生徒一人ひとりの個性や才能ではなく、その生徒の学力が全体の中で何番目に位置するか、という点です。そのような偏差値重視の教育が、先の国語科の教師たちの発言にも繋がっていることは間違いありません。数字で表されるものは分かりやすいけれども、最も大事なものは、数字では表せない、目には見えないものの中にあるのではないでしょうか。

もちろん、生徒たちは志望校に入るために受験をくぐり抜けねばならず、学校側も入試により生徒を選別しなくてはなりません。そして、教え子が晴れて受験に合格し、志望校に通うことができるよう、また希望に沿った就職ができるよう、学力をつけてやることが、学校教師の役割であり、それがうまくできる先生が、指導力のある立派な先生である、ということになるわけです。

ですが、勉強は、単に受験に合格するための手段なのでしょうか。 本来、勉強とは、学びを通して知識や教養を身に着けるとともに、自ら考え、この世界で生き抜く人間力を身につけていくためのものではないでしょうか。
また教育本来の目的も、知識を一方的に教え込むことで生徒を受験に合格させることではなく、子どもたち一人ひとりが、かけがえのない人間として、自ら学び、考え、生き抜いていく力をつけていくための手助けをすることにこそあると思うのです。
受験のために勉強するのではなく、創造的な学びの先に、受験という一つの関門がある。そうなったならば、日本の学校は、子どもたちにとっても教師たちにとっても、より生き生きとした、実り多き場になるのではないでしょうか。
30歳まで中学校で教鞭をとっていた私には、それが如何に大変なことか、よく分かります。ですが、子どもたちが一人の人間として成長していくために、ひいては、国のため、人類のために、学校が本来の教育力を取り戻し、生き生きとした学びの場となっていくことを、心から願ってやみません。


書写から書芸へ


私が書を始めたきっかけは、小学校の習字の時間でした。担任の先生が全国的にも有名な書道の大家で、教室の壁には、こんな筆、一体どうやって使うんだろう?と思われるような珍妙な筆が何本も掛けられていたのを覚えています。字がはみ出ようが、紙が破けようが、「これは元気があっていい!マル!」と褒めてくれるような芸術家肌の先生で、子ども心に「書って面白い!」と思ったことが、のちの自分の書芸家としての人生に繋がったように思います。 ただそれは稀なケースで、小中学校の習字は担任や国語の先生が兼任するため、書写の授業では、御手本通りに上手く書けているかどうか、といった指導にとどまるのが普通です。

お手本通りに書き写す習字や書写は、「手習い」という言葉にも見られるように、古くから日本にありました。江戸時代の寺子屋で文字や言葉を覚えるために行われていた手習いが、明治時代以降、書道が盛んになるにつれ、書を正しく美しく書くための書道として学校教育に取り入れられるようになります。現代の学校に習字や書写の時間があるのは、その名残りです。
日常的に毛筆を使っていた時代には、書には実用としての役割がありましたが、現代では毛筆を使うのは特殊な場にかぎられるようになり、パソコンやスマートフォン等の普及により、今ではペンで文字を書く機会さえも少なくなっています。
そのため、学校の教科としての習字は必要ないのではないか、という意見も根強く、それに対して書道家たちは「日本の伝統文化を守るためにも習字は必要である。いや、むしろ時間を増やしてほしい。」と運動を続けています。
そういった書道家の人たちの想いは、痛いほどよく分かります。書は素晴らしい日本の伝統文化であり、世代を越えて継承していくべき価値のあるものだからです。
一方、習字や書写といった従来の形のまま存続していくことについては、些か異論があります。教育も他の分野と同様、普遍的なものを保ちながらも、時代に応じて進化発展していくべきものであると考えるからです。
今の時代に求められているもの、それは、人間がロボットのように、ただ御手本やマニュアル通りに物事をこなしていくことではなく、それぞれが個性を発揮し、命いっぱいに花開いていく中で、共によりよい社会を創造していくことではないでしょうか。
習字や書写の授業に関していえば、御手本をただ真似て上手く書けるようになるための訓練の場ではなく、そこに自分の心、いのちを映し出していく、芸術的創造の場~書芸~に転じていくことで、子どもたちの成長に欠かせない芸術科目の一つとなっていくものと確信します。


世界の子どもたちをめぐる新たな波


近年、世界最高水準の幼児教育として注目を集めているイタリアのレジョ・エミリアにおける教育実践「レジョ・エミリア・アプローチ」は、アート表現を基調としたさまざまな創造活動により、子どもたちの中に潜む可能性を引き出していくことに成功している好例です。 また、フランスの画家・ジャン・デュビュッフェにより提唱され、いまや世界に広まりゆくアール・ブリュット(生の芸術:美術の専門的な教育を受けず、既存の芸術の文脈や流行にとらわれない、作家の内面から湧き上る自発的な芸術表現)の波も、人類に新たな時代の到来を告げています。
教育には、既存の知識や文化を伝えていく役割ももちろんありますが、それらを一方的に教え込むのではなく、自ら考え、探求していく心を育くんでいくことが、教育の最も大きな役割であると言えるのではないかと思います。

以下に、レジョ・エミリア・アプローチの基礎を築いたイタリアの教育家・ローリス・マラグッツィの詩をご紹介します。

子どもたちの100の言葉  
ローリス・マラグッツィ (田辺敬子 訳)

でも、百はある。
子どもには 
百とおりある。
子どもには
百のことば
百の手
百の考え
百の考え方
遊び方や話し方
百いつでも百の
聞き方
驚き方、愛し方
歌ったり、理解するのに
百の喜び
発見するのに
百の世界
発明するのに
百の世界
夢見るのに
百の世界がある。
子どもには
百のことばがある
(それからもっともっともっと)
けれど九十九は奪われる。
学校や文化が
頭とからだをバラバラにする。
そして子どもにいう
手を使わずに考えなさい
頭を使わずにやりなさい
話さずに聞きなさい
ふざけずに理解しなさい
愛したり驚いたりは
復活祭とクリスマスだけ。
そして子どもにいう
目の前にある世界を発見しなさい 
そして百のうち
九十九を奪ってしまう。
そして子どもにいう
遊びと仕事
現実と空想
科学と想像
空と大地
道理と夢は
一緒にはならないものだと。

つまり
百なんかないという。
子どもはいう
でも、百はある。


「書芸教育アプローチ」の確立をめざして


書は日本、アジアの伝統文化であるとともに、民族、宗教、文化、言語等の違い越えた、人類共通の芸術としての力を秘めています。
オーストリアの思想家・ルドルフ・シュタイナーにより提唱されたシュタイナー教育における、オイリュトミー、フォルメン線描、水彩といった芸術的アプローチと同様に、書芸術には未知の教育的可能性が秘められているのです。
その可能性を求めた書による教育実践が、まだわずかながら、日本の高校や大学で試みられるようになってきており、また小中学校においても、課外授業やワークショップといった形で芸術的創造の場が生まれ始めたのは、実に喜ばしいことです。
こうした積み重ねを通して、書の専門家でなくても実践可能な、書芸による教育プログラム=「書芸教育アプローチ」といったものが、いつの日か確立され、日本はもとより世界の教育現場で広く活かされる時代が来ることを、心から願ってやみません。

私自身、講話、書芸パフォーマンス、書芸ワークショップ等を通じて、子どもたちの中にある宝物を掘り起こすお手伝いをさせていただく中で、書芸教育アプローチの創造に向け、微力ながら力を尽くしていきたいと思います。

SOGEN書芸ワークショップ『どこでも書芸塾』の活動にご興味をお持ちのグループ、学校、施設、企業様がございましたら、以下のフォームより、ぜひお気軽にお声がけください。
書道家/書家 子供向けワークショップのご案内



 

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